江戸川区にとっての最適の減災対策とは?

建設委員会視察報告②2,3日目・奥尻島

港に設置された避難施設(下から)
港に設置された避難施設(下から)
1993年に起きた北海道南西沖地震は、奥尻島に壊滅的な打撃を与えました。震源の深さが34kmと浅く、また奥尻島に近かったことから、地震発生後2〜3分で津波の第1波がきました。島の周りを囲むように津波が第7波まで襲い、夜10時過ぎのこともあって、逃げる間もなく北端の稲穂地区、南端の初松前地区、青苗地区、西海岸の藻内地区は、ほとんどすべてが流され、壊滅状態となりました。津波の高さは、29mに達したところもありました。

青苗地区は津波のあとも火災に見舞われ、町は跡形もなくなってしまいました。1983年の日本海中部地震でも津波の被害にあっていることから、青苗地区は居住禁止区域とされ、土地はすべて町が買い上げ、高台に宅地造成を行い全戸の住民が移転しました。跡地は津波高から計算され作られた防潮堤に合わせて盛土を行い、漁業の施設や避難施設などを作りました。盛土をしたところに、新たに町を作る、これはすべてが波にさらわれてしまったために、まったく新しいまちづくりができたのでしょう。

江戸川区でも、洪水対策として北小岩1丁目の一部地域で、スーパー堤防事業の手続きが進められています。青苗地区と同じように、盛土をして地面をかさ上げし、区画整理をして新しいまちを作ることになっていますが、大きく異なるところは、盛土をするところに住民が住んでいるということです。一度、住んでいる住民を移動させ、盛土が済んでからまた戻るという2度の引越しが必要になります。特に高齢者にはたいへんな負担ですし、そもそも北小岩は江戸川区のなかでも地盤の高い地域であり、施行区域が1〜2割と大幅に縮小されたスーパー堤防事業が必要な地域とは考えられません。

3日目には、西海岸線を襲った津波で壊滅したいくつかの集落を、説明を受けながら通りました。島の周りを囲う、建設済みの防潮堤は14000mに及びます。住宅のある海岸に沿ったまちには、必ず海面から11mほどの高さの防潮堤があります。まちからは海岸の景色は見えません。そうまでして、まちを守らなければならないほどの津波を奥尻島の人々は経験したのです。この津波の恐ろしさを風化させまいと建設された「津波館」を最後に訪れました。これは、元青苗地区の住宅地だったところに建てられたものです。同じ敷地内には亡くなった198人の方々のための慰霊塔などもありました。

洞爺湖町も奥尻島も町の規模としては、江戸川区よりずっと小さいところですが、避難のあり方、自然に対する災害対策に大小はありません。洞爺湖町の職員の方の「洞爺湖町は噴火からは逃れられない。火山があるからこそ生活が成り立っているので、災害との共生を根本に考えている」ということばが印象に残りました。奥尻の方々も、海の傍でなければ生活していけないと避難施設を設けて日々の仕事をしています。災害を完全に防ぐことは不可能です。自然災害においては、どんなにお金をかけても被害を完全に防ぐことはできません。そこで、限られた予算と資源を用いて、被害を小さくすることに焦点をあてた対策をとる「減災」ということが考えられるようになりました。

被災地復興予算の確保が必要とされる中、江戸川区も非常にコストのかかるスーパー堤防事業に固執することなく、代替策の検討や、最近頻繁に起こる集中豪雨による内水氾濫への対策などを優先すべきではないかと考えます。